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山を下りると、私たちは何もない田舎道を歩いて錆びれた商店街までやってきた。
『救世ノ家』の内部分裂が進んでいくのに比例して、元々少なかった島の人口は加速度的に減少していった。
今もこの島に残っている人々はどういう気持ちで生活しているのだろう?
私は教団の信者でなかった上に田舎独特の人付き合いが苦手だったから、ここに住むほとんどの人たちと親交がなかったけれど、
生きるよすがを失った人間がその後どんな人生を送るのか……想像するだに怖くなる。
知らないことは知らないままでいた方が、幸せに生きられる可能性が高くなるのかもしれない。
でも、少なくとも私はもう、何ものからも目を逸らすつもりはない。そういう風に生きると一度決意したからには。
「どうするかな? ……気の利いた喫茶店なんかあるわけもなし」
昔は雑貨屋さんだった建物の前で草ちゃんは息をつき、ゆっくりと四方を見回した。
「じゃあさ……」
私はそこでふっと思いついた。
「ん……?」
「家に行ってみない?」
「もう……何もないのにか?」
言ったとおり、隣り合って建っていた草ちゃんの家と私の家は数年前に取り壊され、今は更地になっている。
「ないけど……行けば懐かしくなるよ、きっと」
「そういうものかな……」
「多分……」
はにかみながら、私は小さく頷いた。
眼に見えるものだけが人の記憶を刺激するわけじゃない。
そこに漂う音、匂い、空気……が健在ならば、私たちはすぐにでも過去の世界に浸ることができる。
それに、それくらいの繊細さは持ち合わせてないと、あまりにも人生が味気ない。
「それで帰りにさ、神社に寄ってみない?」
「…………」
神社という単語を耳にしたとき、草ちゃんははっと眼を見開き、遠くの空をちらりと見上げた。
「どうしたの……?」
「なんでもない……」
少しだけ疲れたように微笑んでから、草ちゃんは私の前を歩いていく。
その背中を見つめながら、私はまだまだ草ちゃんについて知らないことがたくさんある、
でもそれがあたり前なんだ、と思った。
問題は知ることを諦めない気持ちがあるかどうか、そこが大事なんだ。
ねぇ……そうでしょ?
桜ちゃん。
それから私と草ちゃんは、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、久しぶりに昔の帰り道を辿っていった。
「あぁ……やっぱりなんか懐かしいなぁ」
当然のことながら、そこには何もなかった。
かつて私と草ちゃんの家があった場所は今や完全に空き地となっており、ここかしこに雑草がぼうぼう生えている。
それでも、見覚えのあるエンジュの木を眼にしたとたん、脳のどこかに畳み込まれていた記憶の数々が生き生きと色づいていった。
と同時に、なくなったのは建物だけで、遠くから聞こえてくる虫の鳴き声も、むせ返るような草の匂いも、
何もかもが変わってないことに気づいた。
「そうかな……」
素っ気ない呟き。
私とは対照的に、草ちゃんはあまり昔を懐かしむ気持ちになれなかったようだ。
「ノリ悪いなぁ……」
「もう、俺、ここにはなんの思い入れもないからさ」
「思い出のいっぱい詰まった場所なのに?」
「大切な思い出ってのは……何もしなくても、記憶の中で生き続けるものだろ?」
「ん……」
それは確かにそうなのかもしれないけど。
でも、だからといって、思い出の場所の意味が消えてしまうわけではない。
それに何かを媒介にして、過去の自分を見つめたり、癒してあげることが徒労だとも私は思わない。
昔はそういう風に考えられなかったけど、今は多少大人になったから、そうすることが自分のため、
引いては他人のためになることがよくわかる。
「俺……なんか変なこと言ったか?」
私は首を左右に振り。
「ううん……」
なんだか今日の草ちゃんは、ずっと張り詰めている感じがして、いつもの余裕というか、柔らかさがない。
桜ちゃんのお墓の前で、決めたことがある、そう言っていたけど……。
「お父さん、元気にしてる……?」
話題を変えることにした。
「あいかわらずさ……顔を合わすたびに、俺を殴れ、としか言ってこない」
「あははっ……そっかそっか」
草ちゃんのお父さんは私たちが高波邸から救出された後、すぐにエジプトから帰国して島へ戻ってきた。
「ほんと、うっとうしいぜ……」
いつも豪放磊落だったお父さんも、事件の顛末を聞かされた際にはさすがに顔を蒼ざめさせていた。
「もっと優しくしてあげなよぉ……お父さんも必死なんだよ」
草ちゃんのお父さんにとって、実の息子が苦しんでいるときに何もできなかったことは相当トラウマになったらしく、
帰国後は人が変わったように親密に草ちゃんに接しようとしていた。
草ちゃんは嫌がっていたけど、当時のお父さんの気持ちが、今の私にはよくわかる。
結局のところ、草ちゃんのお父さんは見かけほどドライでもないし、器用な人でもなかったのだ。
「何が必死なんだか……」
「もう、海外に行く予定はないの?」
草ちゃんのお父さんは著名な考古学者で、一度国外に出ると三、四年帰ってこないこともしばしばあった。
「長期で行くことはまずなさそうだな」
「そうなんだ……」
「まだまだ老け込む歳じゃないと思うんだけど」
「草ちゃんと一緒にいたいんだよ」
「やめてくれ……気持ち悪い」
「いいじゃない? ……子供の頃はほとんど離ればなれだったんだし」
「父と子ってのはそれくらいでいいんだよ」
「ふぅん……」
でも、草ちゃんはお母さんを早くに亡くしている。
小さな頃から片親どころかほとんど一人ぼっちで生活してきたのだ。
本音ではかなり寂しかったんじゃないだろうか。
本人は昔からそんなことはないと言い張ってきたけど。
「そろそろ行こうぜ」
昔自分の家が建っていた場所をあらためて一瞥すると、草ちゃんは元来た道を引き返し始めた。
「うん……」
私はもう一度周りを眺め渡してから、来てよかった、と呟き、小走りで草ちゃんの後を追った。
「あのさ……一つ、謝らせてくれ」
境内に入り、本殿の階段に二人して腰掛けると、草ちゃんはおもむろに口を開いた。
「謝りたいって……なんで?」
「俺……今日、お前がこの島に来ること、知ってたんだ」
「えっ……?」
「昨日の夜、七時頃かな? ……仕事先に電話したら、もう帰った後でさ……」
「そうだったの? ……昨日は珍しく、定時に帰ったからね」
普段通りの口調を心掛けながらも、私は心密かに驚いていた。
ルームシェアを解消する際に、しばらくどちらからも連絡を取らないようにしよう、そう誓い合っていたのに。
私たちは精神的に自立することを目指して、一年ほど前に数年に及ぶ同棲生活に終止符を打っていた。
「で、篠崎さんに明日から……って、もう今日だけど、墓参りに行くって教えられたから……」
「先回りして、待っててくれたの……?」
「最初は携帯に電話しようと思ったけど、その、なんていうか……こういうことは、できるだけ大げさにやった方が
いいのかと思ってさ……」
「うん……?」
草ちゃんはしきりに手指を擦り合わせ、かつてないほどおどおどし始める。
「いきなりこんなこと言うのはなんか卑怯な気もするし、迷惑に感じるかもしれないけど、要するにその……」
「お、落ち着いてよ……」
あまりの混乱ぶりに、私はいたたまれない気持ちになった。
「お前……俺と結婚するつもり、あるか?」
「!?」
言葉が出なかった。
こんなことを言われたとき、人はどういう態度を取るべきなのか。
残念ながら、私は一度も想像したことがなかった。
「あ、えーと……」
だから不本意にも、気の抜けた声なんか出してしまう。
「ないのか……」
草ちゃんは悲しそうに目を伏せる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! いきなりそんなこと言われても、心の準備ができてないっていうか……えと、それに私たち、
お互いに自立するために、しばらく離ればなれになろうって決めたばかりじゃない?」
「そうだけどさ……やっぱりそれはごまかしとまでは言わないけど、言い訳に過ぎない……そう思い始めたんだよ」
「言い訳……?」
「何があろうと、これから俺とお前はずっと一緒に生きていくんだろうし……そう思えば、わざわざ回りくどいことをする必要はないだろ」
「草ちゃん……」
どうしてかはわからないけど、心がふっと楽になり、知らず知らずの内に熱い涙が頬を伝っていた。
私も草ちゃんも、頭ではわかっていたんだ。
自分たちが如何に下手くそな生き方をしていたかを。
悲劇のヒーロー、ヒロインじゃあるまいし。
何度となくそう思おうとしたけど、何年一緒に暮らしても、心の底に染みついた負の記憶を根源的に癒すことは叶わなかった。
でも、今、この瞬間……私は普通に、ごくあたり前のようにもう一度草ちゃんの側にいたいと思った。
「そっか……そういうことだったんだ」
自分でも驚くほど明るい声が口から出た。
草ちゃんは今日、並々ならぬ決意を抱いてもう一度私を……迎えに来てくれたんだ。
涙が止まらない。
「若菜……」
「でも、本当に私なんかでいいの……?」
草ちゃんに向かって、私は柔らかく微笑みかけた。
「お決まりの返し方だな……おい」
「真剣に訊いたつもりなんだけど……」
そう言うと、草ちゃんは困ったように笑う。
瞬間、思わず胸が高鳴った。
その笑顔はかつてないほど魅力的で、大人っぽく感じられたから。
「色んなことを抜きにして、お前が一番好きだから……一番好きな人と結婚したいと思うのは当然のことだろ?」
躊躇はまるでなかった。
「……だね」
ここまであっけらかんと同意してしまうということは、私も心のどこかで草ちゃんと同じ未来を思い描いていたのだろう。
それしかないと思い込んでいたのだろう。
「じゃあ……オーケーなんだな?」
じっと瞳を覗き込まれると、私は何故か急に恥ずかしくなり、視線を逸らすためにすっと腰を上げた。
「幸せに……なろうね」
かつての私だったら、疑問形で言ったかもしれない。
「ま、肩肘張らずにがんばっていこうぜ……」
草ちゃんは立ち上がり、そっと私の肩に腕を回した。
いつのまにかオレンジ色の夕陽は西の彼方に沈んでいこうとしていた。
昼間はずっと凪いでいた風が、辺りに少しずつ吹き始めている。
「うん……」
私はさりげなく草ちゃんの腰に手を回した。
「しっかし、帰ったら忙しくなりそうだねぇ」
「なんで……?」
「なんでって……あったり前でしょ? 結婚って大変なんだよ?」
「そうなのかな……」
「そうだよ! ……色々な人に報告して、披露宴も挙げなきゃいけないし……他にもいっぱいやることがあるんだから!」
「えーっ……披露宴、やるのか?」
「何もやらないってわけにはいかないでしょ」
「んーっ……やるとしても、物凄く地味な感じでお願いしたい」
「私……ウェディングドレスくらい、着たいんだけど」
「お前は着飾ればいいさ……けど、俺はいつもの格好で出席する」
「なんでよっ。タキシードとかちゃんと着てよ!」
「絶対に御免こうむる!」
身を寄り添わせ、軽口を叩きながら、私たちはゆっくりと神社を後にする。
桜ちゃん。
やっとわかったよ。
やっとだいじょうぶになれたよ。
やっと……桜ちゃんが望む「私たち」になれそうだよ。
境内を出たところで、茜色の光が祝福するように私たちを包み込む。
「お前……明日までこの島にいるのか?」
「草ちゃんは……?」
「俺は……締め切りがあるから、今日中に帰るよ」
「なら、私も一緒に帰る」
「いいのか……?」
「桜ちゃんには……あらためて報告に来るよ」
「……うん。それでいいんじゃないかな」
桜ちゃん……。
ありがとう。
桜ちゃんにもらった命。
私、できるかぎり幸せにしてみせるから。
どうかこれからも、ずっとずっと、見守っていてください。
今も昔も……ううん、昔よりも今の方がずっと愛しているから。
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