「ふぅぅっ……あいかわらず、暑いなぁ」

 鬱蒼と生い茂った木々の間から漏れてくる日差しは、眼に眩しく、身体中を火照らせてくる。
 島の夏はじっとしているだけで汗ばんでくるほど気温が高くなる。
 傾斜のきつい山道を登り始めてから、もうどれくらいの時間が経っただろう?

「二十分……ってところかな」

 そこでふと立ち止まり、肩で息を整える。

「ふぅふぅはぁはぁ……」

 右手に握りしめたお供えの花束に視線を落とすと、急に呼吸が忙しくなり、頭がズキズキ痛くなる。
 久しぶりの……発作だ。

「駄目だったら……こんなんじゃ!」

 私の最愛のお姉ちゃん……桜ちゃんは私がこんな風になることを、絶対に望んでいないんだから。
 なんとか呼吸を落ち着かせ、澄んだ山の空気を胸いっぱいに吸い込み、そして吐き出す。
 するとかつては毎日見ていた桜ちゃんの懐かしい笑顔が脳裏に甦る。
 草ちゃんいわく、見ているだけで心が洗われる笑顔。

「ほんと……そうだよねぇ」

 上方を仰ぐと、天上を遮る葉々の隙間から空色が透けているのが見えた。
 青空のような笑顔。
 桜ちゃんは草ちゃんといるとき、そう形容するのがぴったりな笑顔をいつも浮かべていた。
 誰かを本気で愛せたなら、私もあんな風に笑えるようになるんだろうか?
 
「どうなのかな? ……桜ちゃん」

 お墓参りに行くのは、今年はこれで二回目になる。
 今から六年前の三月二十七日――桜ちゃんは交通事故で亡くなった。
 それから毎年、年に最低四回は墓参するようにしている。
 春、夏、秋、冬……季節が変わるごとに、私はお墓の中で眠る桜ちゃんに話しかけに行く。
 もちろん、義務でそうしているのではない。
 今も昔も、私にとって桜ちゃんは大切なお姉ちゃんだから。
 最愛のお姉ちゃんだから。
 一番長く、一緒の時間を過ごしてきた人だから。

「んっ……」

 再び足を止め、ぐっと涙を堪える。
 
「こんなとこで泣いて……どうすんのさ」

 ごしごし目元を袖で拭う。
 桜ちゃんが私と草ちゃんの命を救うためにこの世を去ってから、私はふとしたことですぐ泣くようになってしまった。
 もう涙なんか流すまいと一度は心に決めたのに、どうしても涙腺が緩んでしまう。
 やっぱり私には自分を達観することなんかできない。
 でも……。

「桜ちゃんは……桜ちゃんは……」

 私が笑顔でいられるよう、元気で生きていけるよう、すべてを許し、自らを犠牲にしてくれたんだ。
 だから私はいつでも、どんなときでも笑顔で……誰かのために笑っていなくちゃならない。
 それがわかっていながら……どうして。
 いや、どうしてじゃない。
 つまるところ、私の心が弱いんだ。

「えいっ!」

 両手でほっぺたを押し上げ、無理やり笑顔を作ろうとする。

「よしっ……」

 そうして私はまた墓所を目指して歩き始める。
 歩を進めるたびに、地面に折り重なった小枝がぽきぱき軽快な音を立てる。
 風はそよとも吹かず、服の内側に熱気が充満している。
 しばらく登ると、道が左右に分かれるポイントまでやってきた。
 右手に行けば開けた山麓に辿り着き、左手に進むと山頂を目指すことになる。

「もうひと踏ん張り……だよ」

 小型のペットボトルの蓋を開け、冷たいお茶を喉奥に流し込む。
 朝から何も食べてないせいか、胃の辺りが妙に気持ち悪い。
 島に着いたらお昼ごはんにしようかと思っていたのに、この数ヶ月の間に唯一営業していた食堂も潰れてしまったらしい。
 どうやら無人島となる日もそう遠くないようだ。
 
「あんなことがあったんだもん……当然、だよね?」

 でも――
 島にはなんの思い入れもないけれど、誰もいなくなってしまうのはほんの少しだけ寂しい気がする。
 あんな酷いことが起きたとはいえ、人生の大部分をここで過ごしてきたのだから。
 桜ちゃんと、草ちゃんと、仁との思い出が詰まった場所なんだから。
 
「一番嬉しいことも……一番悲しいことも、全部ここで経験したんだ」

 そう呟いたところで、一気に景色が開ける。
 山の中にぽっかりと開けた空間の中央付近には古びた墓石が整然と並んでいる。
 昔から公界島の人々は、亡くなるとこの墓地に葬られてきた。
 何故、山中にそういう場所が作られたのか、その由来は定かにされてない。

「着いた……」

 険しい山道を歩くこと数十分、ようやく目的地に辿り着いた。
 道の行き止まりにある水汲み場のところまで来ると、私は共用の手桶に水を汲み、近くに立てかけられていた柄杓を手に取った。
 それから道を引き返し、墓地の方までゆっくりと歩いていく。

「また来たよ……お姉ちゃん」

 最前列の右端に建てられた墓石の前まで来ると、私はお供えの花束を地面に置いて、柄杓で手桶から水を汲む。

「今年の夏も暑いねぇ……桜ちゃんは見かけによらず暑がりだったから、夏バテしてないか心配だよ」

 墓石に満遍なく水を掛け終わると、私は持ってきた供花を花筒に挿した。

「桜ちゃん……お姉ちゃん……」

 そして眼を瞑り、桜ちゃんの顔を思い浮かべながら、そう遠くない過去に思いを馳せる。

「私ね……最近、よくわかってきたんだ」
「生まれて……物心ついたときから、私ってずっと桜ちゃんに頼りっぱなしだったんだね」
「顔にこそ出してなかったけど、本当はかなり無理してたんでしょ?」

 私がどこで何しようと、桜ちゃんはいつも側で清らかに微笑んでくれていた。
 仏様の微笑。そう、桜ちゃんは私にとってずっと仏様のような人だった。
 でも、本当は色々言いたいことが、伝えたいことがたくさんあったんじゃない?
 思えば桜ちゃんは、一緒に過ごした時間こそ長かったものの、自分のことに関してはあまり私に話してくれなかった気がする。

「私ばっか……しゃべってたもんね」

 そうだ。私のせいなんだ。
 私が子供っぽかったせいで、桜ちゃんはいつでも聞き役に徹しなくちゃいけなかったんだ。

「ごめんね……姉妹なのに、相談相手にもなってあげられなくて」

 私が早く大人になっていれば。
 私たち、もっといい姉妹になれていたのにね。
 もっと気兼ねなく、色々話せたのにね。
 ごめん。桜ちゃん。
 ごめん。草ちゃん。
 ごめん。かつての私。

「あのとき、草ちゃん並みに桜ちゃんのことがわかってたらなぁ……」

 草ちゃんは桜ちゃんを、桜ちゃんは草ちゃんを自然に、無理なく理解しようとしていた。
 だからこそ、二人はお互いに惹かれ合った。
 当然のことだと思う。
 でも、私はいつからか、そんな二人の世界に入っていけないように思い……勝手に疎外感を抱え込んでいた。
 なんて未熟で、愚かなやつだったんだろう。
 二人はあんなに優しく私に接してくれていたというのに。

「私……がんばるから。こう見えても、ちょっとずつ強くなってきたんだよ?」

 背負ってきた旅行かばんのジッパーを開け、中から林檎を二つ取り出す。
 一つを墓前に供えてから、もう一つの方をかじった。
 酸味の効いた味が口の中に広がっていく。

「酸っぱい……こりゃあ、お菓子用の林檎だね」

 私は苦笑を浮かべ、でも、桜ちゃんは独特の味覚の持ち主だったから、案外こういう味の方が好きかもしれない、なんて思った。

「若菜……」

 背後から突然響いた声。
 私はその声に聞き覚えがあった。
 一年前までは、毎日のように聞いていた声。

「草ちゃん……?」

 白いジャケットにジーンズを合わせた男の人が、静かな足取りでこちらに近づいてくる。
 見間違えようがない。
 あれは絶対に……草ちゃんだ。

「偶然にしても出来すぎだな……」

 照れたように笑いながら、草ちゃんは私の目の前までやってくる。

「久しぶりだね……」

 私も自然と照れ笑いを浮かべていた。

「命日に会ったとき以来か……?」
「うん……元気にしてた?」
「まぁまぁ、な……そっちこそどうなんだよ?
元気にやってるか?」
「元気だよ……仕事も楽しいし」
「そりゃあよかった……紹介した甲斐があったな」

 私は大学を卒業してから、草ちゃんがアルバイトをしていた出版社で働き始めていた。
 仕事は時間帯が不規則な上に忙しいけど、本好きの私にとってはまさしく天職だった。
 桜ちゃんもそうだけど、草ちゃんも限りなく私に優しい。
 だけど私はいつまでも、二人に甘えているわけにはいかなかった。
 誰かに頼らず生きていけるようになるまでは、誰かを愛することは叶わないといつしか悟ったから。

「そっちの方はどう?」
「んーっ……まだまだ駆け出しだからなぁ」
「あんまり依頼が来ない……とか?」
「……あぁ」
「ちゃんと生活していけてるの?」
「毎月カツカツだけど……まぁ、なんとか」
「そう……」

 ちょっとだけほっとした。
 草ちゃんは出版社でのバイトを辞めた後、フリーのライターとして活動し始めていた。
 正直なところ、本当に自活していけてるかどうか不安だったけど、顔色を見る限り、そんなに心配はなさそうだった。
 さすがはタフな草ちゃんだ。
 私も見習いたい。

「これも運命なのかな……」
 私は墓前に手を合わせる。
「運命って……?」
「まさか……今日、ここで再会するとは思ってなかったから」
「俺だってそうさ……」
「桜ちゃんが引き合わせてくれたのかな……?」
「ただの偶然だよ……きっと」
「そうかなぁ……」
「そうだよ……」

 あの事件が終わってしばらくしてから、草ちゃんは運命という言葉を心の底から忌み嫌うようになった。
 自分の与り知らない何かに自分の人生を決められてしまうなんて冗談じゃない。
 一緒に暮らしていた頃、草ちゃんはそんなことを言うたびに、怒りと悲しみに身を打ち震わせていた。

「隣……いいか?」
「あ、ごめん……」
 草ちゃんは私の隣にしゃがみ込むと、両手を合わせて瞑目した。
 暑苦しい虫たちの鳴き声が幾重にも重なって聞こえてくる。
 心の波は穏やかになり、私は段々と落ち着いた気分になってきていた。

「桜……お前がこの世を去ってから五年が経ったけど……」
「草ちゃん……?」
「俺、決めたことがあるんだ……」

 草ちゃんは墓石をじっと見つめながら、桜ちゃんに語り続ける。
「多分、お前はどこかでずっと俺たちの幸せを祈ってくれてるんだろうけど……正直、まだその期待に応えられてない。
幸せになる方法なんて、一つしかないのにさ。要するに、勇気がないんだ。俺も若菜も。これはもう、時間の問題じゃないよな?」
「…………」

 草ちゃんは口を閉じると、持参した供花を空いている方の花筒に挿した。

「若菜……」
「うん……?」
「これから……ちょっと時間あるかな?」
「う、うん……今日、明日と有休取ったから、しばらく暇だけど……」
「なら……ちょっと付き合ってくれ」
「いいよ……」

 それから私たちはお線香を上げ、しばらくの間、それぞれの思いに浸っていた。
 腕時計を見るともう、午後三時を過ぎている。
 帰り際、私はもう一度墓石に向かって、がんばるから……と呟いた。



= 後編に続く =